一人の看護師が出会った先住民のハーブティー
1890年代、滅亡の一途をたどっていた北米先住民オジブア族のメディスンマン(呪術医)からハーブティーをもらって飲んでいた一人の白人女性がいました。彼女は晩年、このハーブティーの製法をカナダの看護師リーン・ケイスに伝授します。健康問題で悩んでいる多くの人々を救って欲しかったからでした。
2年後、リーンは体調不良を訴えた叔母のためにハーブを摘んで煎じ、そのハーブティーを毎日飲ませることに。驚くべき現象が現れ始め、叔母はその後20年間生きて人生を全うしました。
(1988〜1978)
ハーブティーは多くの人の話題になり、リーンのもとには多くの人が訪れるようになりました。報酬を求めず人々のささやかな寄付に頼るだけだったリーンは、やがて家賃の支払いもできなくなり郊外の小さな一軒家に移住。そこでも厳重に注意され処分されそうになります。しかし、まわりの人々の援護を受け、保健福祉大臣に直談判。ハーブティーの継続を認めさせることはできましたが、「代金を請求しない」という条件がつけられます。
無償の奉仕を続けるリーンの苦境
1932年、トロント・スター紙が「注目すべきハーブティーを発見」と、大見出しでリーンを紹介。訪ねてくる人々は増加する一方でした。大金を積んでブレンド方法を買い取ろうとしたり、共同事業を申し入れてくる人間も少なくありませんでしたが、リーンは儲け話に一切関心を示しませんでした。
1934年、リーンのハーブティーを飲んでいた一人の男性が、町議会に熱心に働きかけ、オフィスが開設されました。リーンのハーブティーへの信頼と期待は高まり、活動の支援を要求する請願書には数千人の署名が集まり保健福祉局に提出されました。
しかし1942年、カナダ政府はリーンの事業を中止するよう要請。議会では壮絶な論戦が展開されますが、リーン法案は僅差で否決。オフィスは閉鎖に追い込まれます。
手を差し伸べたブラッシュ博士と共に
リーンの苦境を知り自身のオフィスに招いたのが、アメリカ合衆国の元大統領ジョン・F・ケネディのスタッフであったチャールズ・A・ブラッシュ博士です。1959年のことでした。博士は植物に秘められた力に深い造詣を持ち、優れた部分は積極的に取り入れる人物。リーンとブラッシュ博士は共同で慈善基金を設立し、事業活動を行いながらハーブティーのブレンド方法をついに完成させます。
リーンは1978年、91歳で他界。オジブア族のハーブティーを知ってから56年、そのブレンド方法を完成させ、人々を救うことに自らを捧げた一生でした。
ブラッシュ博士(右)
ラジオ放送で紹介されたリーンの生涯
リーンの博愛精神に裏付けられた不屈の魂に強い感銘を受けたのが、カナダでラジオ番組のプロデューサー兼キャスターとして活躍していたイレーン・アレグサンダーです。彼女はリーンの生涯をたどり、入念に取材を重ねてドキュメンタリー番組として放送しようと考えていました。
リーンの死から6年経った1984年。その番組が放送されるとすぐに局の電話は鳴りやまず、放送局の前は車であふれました。そのラジオ番組に何回も出演したブラッシュ博士とイレーンは、リーンの遺志を継ぎ、より多くの人々にこのハーブティーの恩恵をもたらすために、信頼できる企業に製造を託そうと慎重に調査を行い探し当てたのが、カナダのフローラでした。フローラは厳選された原料を用い、最新技術で高品質の製品を製造することで知られていました。
1992年、ハーブティーの正統な製法がイレーンからフローラに伝えられ、契約が交わされました。 この翌年、ブラッシュ博士は使命を終えたかのように天に召されたのです。
商品パッケージには絵心があったイレーンの筆によるハナミズキの花が描かれています。これは、カナダのブリティッシュ・コロンビア州 の州花であり、この地の先住民の知恵への畏敬の念が込められているようです
(1924~1996)
『フロー・エッセンス+』の誕生へ
フローラはこのハーブティーを、「フロー・エッセンス」と名付けました。こうして「フロー・エッセンス」はカナダ、アメリカの優良健康食品店をはじめ、世界の多くの国々で販売されることになったのです。
そして、「フロー・エッセンス」を日本でも飲めるようにしたいという、一人の日本人女性が現れます。熱い想いに動かされたフローラのトーマス・グレイザー社長は、2年あまりの歳月をかけて日本向けの『フロー・エッセンス+』を開発しました。
こうして2000年12月から、日本でも『フロー・エッセンス+』が飲めるようになったのです。
『フロー・エッセンス+』は、人から人へと受け継がれた崇高な想いと共に、今を生きる日本の私たちに伝えられました。先住民の優れた経験と叡智を、私たちはこのハーブティーをいただくことで、共に享受できるかもしれません。(よい日々編集 松本)